待てば海路の日和あり

うつ病治療中です

甘ちゃん

コロナ禍になり、家にいることが多いので、自然と新聞を読むことが前より少し多くなった。

 

政治や経済の記事はあまり読む気にならないが、障害について書かれている記事は自然と読んでしまう。

 

 

 

俺は10年近く、障害とともに生きてきた。

 

自分のことを「障害者」と認識するようになったのはごく最近だけど、障害者として生きてきた自分が「社会にこうなって欲しい」とより強く思ってしまうことが1つある。

 

 

それは、

 

「弱者が淘汰される世の中になればいいのに」

 

 

ということである。

 

 

 

弱者であり、障害者である自分自身も生きたいと感じるので、矛盾しているのだが

 

 

俺の家族には俺を含めて、何人か障害者がいた。それを支えていた健常者の母や姉の辛さはいつも感じていた。

 

 

 

今は多様性を大事にして、みんなが幸せになれることを目指す社会なので、

 

 

メディアでは、弱者や少数者の社会進出にスポットを当てたり、支援する内容が多いように思う。

 

 

それはとても素敵なことでもあるし、俺自身もこの世の中は自分にとって居心地がいい

 

 

 

しかし、「弱者が生きることが出来てしまうこと」は世の中の摂理に反しているし

 

 

医療が進み過ぎたことで、先進国では人があまり死ななくなり、人口が増える一方なので

 

 

こうやって、コロナとかが人口を減らすために、自然の摂理として作用しているように思う。

 

 

 

そんな大きな世界のことはどうでもいいけど

 

 

俺はやはり、障害者である自分がいるせいで、健常者である母や姉の幸せが削がれるのが、すごく嫌やった。

 

 

ボランティアで、重度の障害を負った子供と接したこともあるが、この子達は生きていて本当に幸せなのか?死なせてあげた方がいいのでは無いか?

 

 

そう思ってしまったこともある。

 

 

 

 

弱いものを無理やり医療で生かすことは、倫理を切り裂き、摂理を歪めていることだと思うので、世の中のどこかにズレというか歪みが出てくると思う。

 

 

 

その歪みが、このコロナなどではないかと俺は思ってしまう。

 

 

 

そりゃあ、みんな幸せが一番いいし、それが一番幸せやけど、なかなか世の中は甘くはないかもしれない。

 

 

 

とにかく、俺は障害者である自分がいるせいで健常者の姉や母が、しんどい思いをするのがすごく嫌だった。

 

祖母は目が見えなかったし、祖父は胃が無かったし、父は俺と同じ病気だったし

 

 

 

そう言いながらも、やっぱり一人一人も幸せに生きたい生きて欲しいと思うし、よう分からん。

 

 

 

 

それだったら、俺は生まれてこなければ良かったか?と聞かれたら

 

そうは思えないし

 

 

俺の周りには沢山の優しい人が居て、というか優しい人だらけで、

 

家族も幼馴染もサポステの友達も一志学園の友達も大学の友達も他の所での友達も

 

俺の周りには、ことごとく優しい人ばかりがいたので、俺は幸せな中に生まれてきた

 

 

でも、病気になったから、優しい周りの人達を俺が苦しめてると思うと悔しくて、

 

「障害者や弱者が淘汰される世の中になればいいのに」

 

とかいつも思ってしまう。

 

 

こんな気持ちになるのも仕方ないことだけど、こんな気持ちになるのは、まだまだ、俺自身知らない世界が多く

 

経験が浅いくせに一丁前に色々考える時間だけはある、甘ちゃんだからかもしれない。

 

 

 

とにかく、俺は、この世の中はすごく好きでもあり、少し嫌いでもある。

 

 

 

でも、俺の周りの人達はすごく優しくて、素敵な人達ばかりなので、恩がたくさんあるので

 

 

俺はつまらないことをたくさん考えながらも、前に向かって頑張るのである。

 

 

 

俺が生きてていいかどうかは分からへんし、そんなんどうでもいいけど、

 

 

俺には夢がある

 

 

 

その夢を叶えるために、俺は頑張って生きる

 

 

結局、それだけである。

 

 

 

 

 

待てば海路の日和あり。